池辺がドラマの現場に着くと、ちょうど才谷結衣が演技をしているところだった。
才谷は多くのスタッフに囲まれながら重要な役を演じていた。
今や期待の新人として芸能界で注目されていた。
出番が終わると、すぐに次のシーンがあるようで、メイクのスタッフが素早く彼女の顔を整えていた。
そして本番が始まると、ライトが当たり彼女を普通の人ではない、華やかな印象を演出していた。
池辺はその様子を真剣に見ていた。
撮影が落ち着くと才谷が池辺のところへやってきた。
「すごいすごいね!結衣!」
「ありがとう、見にきてくれたんだ!」
「うん!」
「陽ちゃんも出てみたくなった?今ちょうどオーデションやってるよ」
「えー、そうなんだ。でも私はいいかな」
「えーやってみようよ。同じドラマに出られたらまた昔みたいに2人で協力できるし!」
「はは、そうだね。でも今の事務所はこんなドラマに出れるような体力ないから」
「えーそうなの?」
「うん、それに私はオーディションに受からないよ」
「そんなことないよ、陽ちゃんだったら絶対受かるよ!」
「いやいや」
池辺は謙遜してか首を振っている。
「大丈夫だよ!一緒にやろう!」
「わかったわかった、ちょっと考えておくわ!」
才谷がスタッフに呼ばれた。
次のシーンの撮影がすぐに始まるようだ。
「あ、呼ばれたから、陽ちゃん、ごめんね。また」
「うん!」
池辺は再び大勢のスタッフの中に吸い込まれていく才谷を見ながら、もう彼女は自分とは違う世界に行ってしまったんじゃないかと思っていた。
自分はなんで不倫なんかしてしまったのか。
いや、なんでSNS上で口論してイメージを悪くしてしまったのか。
また後悔をしてしまった。
池辺が物思いに耽っていると、男が声をかけてきた。
「あれ、やっぱりそうだ。池辺陽子さんですよね!初めまして」
池辺が声のする方を見ると、見たことのない男が隣にいた。
「え、はい、初めまして」
「私、徳永社の雑誌の編集をしております、看取です」
「はあ」
「いやー、こんなところで、池辺さんに会えるなんて思いませんでした。もしよければお仕事の話をしてもいいですか?」
「あ、はい」
「今”あの芸能人は何をしてる?”なんていう特集を組んでいまして、池辺さんどうかなって思いまして」
「あ、それ系はちょっと」
「いいじゃないですか!こういうのギャラ高いんですよ?」
「いえ、結構です」
「こういう系からまた注目されるっていうケースもあるんですよ!」
「大丈夫ですから!私」
池辺は現場から出ようとした。
「いいじゃないですか!今お金に困ってるんじゃないですか?」
「いえ!」
自分はもう終わった存在なんだ。
そういう思いが痛切に現実になってきた。
事務所に所属し、SNSのフォロワーは10万人を超える。
今も仕事の依頼が来るが、フォロワーは日々減っている。
それでも元アイドル、全盛期にはたくさんのテレビに出ていた自分はまだ芸能人だと思っていた。
でも本当の芸能人なら才谷のようにスポットに当たり、大勢のスタッフに囲まれているはずだ。
今の自分とは全然違う、そう痛切に感じさせられた。
そう思うと、今すぐにここから逃げ出したくなった。
池辺は施設でもらった、薬を飲んだ。
うつ病の不安な症状に効く頓服のような薬だ。
それでもしばらく自分がどうしたらいいかわからなくなっていた。
池辺はゆっくり施設へ向かった。
今の自分は少し落ち込んだだけだ。
自分は今自分が思っているほど、芸能界から遠のいていないんだ。
フォロワーだってたくさんいる。
また本気を出せば、必ず才谷と同じようにドラマにだって出れるんだ。
コンビニで売られている雑誌には才谷が表紙になっている雑誌が置かれている。
それを見て池辺は吐き気がした。
自分は才谷と同じアイドルグループに所属していて、自分の方が人気があって、自分の方が早くに卒業したのに、今じゃもう雲泥の差ができてしまった。
才谷は芸能界の第一線で働き、私は問題になっている施設で暮らすしかできない。
自分は何をやっているんだ。
でも自分には、どうしたらいいかわからない。
どうしたら元に戻ることができるのか!
池辺が施設の敷地内に着くと、そこにはいつもと変わらない風景が広がっていた。
工場棟からは仕事を終えた人たちが話しながら出てくる。
そのまま住居者が住むマンションのような住居棟へ向かう人もいれば、外に出て買い物をする人もいる。
池辺は直接住居棟へ歩いていった。
少し出て、撮影を見学しただけだったのに、すごく疲れたような気がしていた。
早く部屋に戻ってベッドに寝転びたいほどだ。
住居棟へ向かっていると、住居棟の近くの道を掃除している友寄がいた!
「あら、陽子ちゃん!今日はいつもと違う感じのお召し物ね!どこかにお出かけだったの?」
「はい」
池辺は作り笑顔を見せた。
しかしすぐに表情は暗くなった。
そして優しい友寄の顔を見ると一気に緊張が溶けてしまい、それと同時に涙が出てきてしまった。
池辺は涙を隠すように友寄に抱きついた。
「すみません、友寄さん何も聞かずにただこうしていてくださ」
「陽子ちゃん、どうしたの?何かあった?」
友寄を優しく抱きしめ、友寄の頭を撫でた。
「わかりません。私、何も」
「いいのよ。大丈夫。こうしていましょう。大丈夫よ。すぐによくなるわ」
「ありがとうございます。友寄さん。私、苦しいの」
「わかったわ。苦しかったわね。もう大丈夫」
「ただ、普通のことをしただけなのに。どうしてこんなに」
「大丈夫。あなたはもう大丈夫よ」
「すみません。すみません」
「いいのよ。大丈夫だから」
友寄はずっと大丈夫と言ってそこにいてくれた。
近くを歩く人は心配そうに池辺を見つめていた。
高橋のスマホが鳴った。
”拓海、頑張ってるの?いつ帰ってくるの?”
高橋は母親からの返信を考えている。
高橋には今帰れる金銭的な余裕がないのだ。
1日8時間働いても、時給は1,000円で5時間分(5,000円)しかもらえない、月10万円では、帰って甥っ子にプレゼントするお金も残らない。
今は将来の為にお金を使いたいのだ。
その為には、忙しいことを演出しなければ。
こんなふうに考えていることが情けない。
自分がこの施設にいるなんてこと、親に知られると面倒なことになる。
それに口が裂けても言えない。
そういうことを考えると、自分は負け組なんだということを痛切に感じてしまう。
自分は上司に突っかかってしまう。
上司が悪いことをしたとしても、たとえそうだとしても部下の自分が突っかかるようなことをしてはいけないんだ。
わかっているが、抑えようと思う前に手や口が勝手に動いてしまうのだ。
高橋は能力的に他人に劣っている部分はない。
プログラマーとしてもそこそこ優秀だったのだ。
だが、上司であろうと間違ったことは間違っていると言ってしまう性格が起因になり、業界から後ろ指を刺されるようになってしまったのだ。
気づいた頃には適応障害になっており、就職先も決まらず、困っていた時に友寄のカウンセリングを受け、この施設へやってきた。
施設内には自分と同じような経験をした人がたくさんいることで少し落ち着いた。
友寄の適応障害はすぐによくなり、今は薬を飲むこともなくなった。
外の世界に復帰したい意思はあるが、今の暮らしは居心地がいい為、抜け出せずにいた。
それに高橋はもう少し、ここでの生活を経験したいと思っていた。
時がくれば、必ず出て行く。
だけど、今はその時ではないと、頭のどこかで思っていたのだ。
いや、まだ甘えているだけかもしれません。
でも今はどうしても体が言うことを聞いてくれないんだ。
高橋は住居棟の簡易的な食事が取れるテーブルがたくさんならんだスペースへ向かった。
そこで入居者はお菓子を食べたり談笑したりしていた。
そこに池辺がいた。
男性用と女性用の棟はカード式で立ちいれないようになっているが、このスペースには両方からアクセスできるようになっているのだ。
池辺はだいぶ落ち着いたのか、スマホに目をやりながら少しだけ微笑む努力をしていた。
「池辺さん、こんばんは、ここで会うの初めてですね」
「ああ、高橋さん、高橋さんもここへくることあるんですね」
「はい」
高橋はニッコリと笑った。