アガサ・クリスティが「そして誰もいなくなった」で伝えたかったこと 解説
アガサ・クリスティ 不朽のの名作「そして誰もいなくなった」が何を伝えたかったのかを解説していきます。
テレビ朝日で二夜連続で放送された「そして誰もいなくなった」は久しぶりに非常に見応えのある物語だった。
犯人は判事。
誰もが持つ二極性
この「そして誰もいなくなった」の犯人は渡瀬恒彦さんの遺作として話題となるほどのサイコパスぶりを発揮した。
しかしこの犯人は人間が誰しも持っている二極性を持っていた。
判事は「罪を犯した人を法によってきちんと裁きたい」という正義と
「罪を犯した人を死を以って裁きたい」という悪の二極を持っていることに気づいたという。
どちらも罪を犯した悪人を裁きたいというもので、その目的は同じところを向いている。
この物語はその人間の”二極性”というものについて深く言及したものだと思う。
仲間由紀恵演じる家庭教師も「教え子を守ってあげたい」という母性と
「多額の保険金が掛けられた教え子を殺し、お金をいただきたい」という欲求の二極性のうち
「お金が欲しい」という欲求が勝ってしまったために心臓の弱い教え子を殺してしまうのだ。
他の登場人物たちも「自分はまともな人間だ」という表意と「自分を守りたい」という欲求が誰よりも強かったがために
「人を殺す」という行為をした人たちばかりだ。
判事が語った犯罪者が持つ二極性
吾輩はこの物語を見ていて誰しも二極性を持っているのではないかと思った。
例えば、勉強をしていい大学へ行きたい。
それは大企業へ勤めてお金をたくさん稼いで幸せになるためだ。
しかし、本当は勉強などせずに楽にお金を稼ぎたい。
それも一つの幸せだ。
というように
普通の人の選択肢の中には努力するか否かだけなのだが
サイコパスの人は人を殺して幸せになるか、努力して幸せになるかという二択になることがあるのかもしれない。
もちろんその二極性の先にあるのはいつもその人の幸せなのだが人によってその方法は全然違うものになるのだ。
面白いのは主人公である判事が、そんな人間の二極性、しかもサイコパスの二極性に気づき、
ビデオの前でそれを明確に打ち明けたことだ。
この物語は判事の「罪深き人を芸術的に殺害する方法を自らの手で犯して見せびらかしたい」という欲望が
「そんなことしてはいけない、きちんと法で裁けばいい」という欲望に勝つことからスタートする。
アガサクリスティはその二つの正反対の極性に可能性を見出したのだと思う。
二極性がもたらす選択の末
アガサクリスティは単に、犯罪者の二極性を書いたわけではなく、人というものに備わる
異なる二つの性格を、可能性に結びつけたのではないかと吾輩は思うのだ。
判事は果たして罪人を殺して、その罪を犯した自分を殺害することを望んでいたのだろうか。
いやそうではないと思う。
判事は自分の暴走を自分以外の誰かに止めてほしかったからこそ、十人の罪人を一箇所に集めたのだ。
この物語では誰も判事を裁くことができなかったが、
それでも、この罪をビデオで記録し、優秀な人物によって、自分の罪を解き明かさせるよう仕向けたのである。
沢村一樹演じる刑事のこの犯人の二極性に早くから気づいたがために事件を解決することに成功している。
しかしこの物語の最終地点は事件の解決ではなく、なぜ、人は罪を犯し、その罪はどのように裁かれるべきなのか。
という未だ解けない難問についての考察なのかもしれない。
おそらく、アガサ・クリスティが「そして、誰もいなくなった」で言いたかったことは
”犯罪者は誰もが持つ二極性のうち、一方が悪で、その悪の方が強くなった時に生まれるものだ”
そして”その悪の方の極性は何かの条件が生まれるとある日突然誕生することもある”ということなのだ。
では「罪を犯した人をどのように罰することが本当の正解なのか」
アガサ・クリスティは人間の二極性を複数描くことで、この難しい問いに本当の正解を導きたかったのかもしれない。
どの主人公も皆罪を感じながらも、自分を守るという幸せは果たした。
そして、その幸せが脅かされるかもしれないという危険が起こったために
危険だがこの「無人島の旅」へと参加したのである。
アガサ・クリスティは人の選択の末に起こる目的達成の可能性。
選択の向こうにある新たなる可能性というものに気づいてほしかったのかもしれない。
でhでh