「モンテ・クリスト伯 ―華麗なる復讐―」最終話考察

ドラマ

ドラマ「モンテ・クリスト伯 ―華麗なる復讐―」が終わりました。

このドラマは何を伝えたかったのでしょうか。

とても様々な思いが込められているようなので、考えていきたいと思います。

復讐心は善良な人でも抑えることができない

柴門暖さんという男はとても誠実で、人に害を与えない善良な人でした。

しかし、友人にはめられ無実の罪を着せられ、拷問を受け死よりも酷い生活を8年間も強制れます。

復活した善良な人・柴門暖さんは復讐心を抑えられなくなっていました。

彼が復讐心を向けたのは、自身を陥れた人間のみでした。

他の人に対しては、以前の彼と変わらない対応がなされていました。

8年間苦しめられたにも関わらず、良い人には恩を売る善良な心が残るのです。

ですが、そんな善良な人間をも悪に引きずり込んでしまうのが、復讐心なのかもしれません。

どんなに善良な人であろうと、不幸に陥れられてしまうと復讐心から逃れられなくなるのです。

おそらく元々悪い人などいず、誰かに陥れられたり、悪い環境に置かれることで人を憎み、悪い人になっていってしまうのだと言っているように思います。

復讐が成功しても残るものは何もない

この物語が一番伝えるべきだったのは、たとえ復讐が成功したとしても、残るものは何もなかったということだと思います。

人は何かの目標のために、成功を夢見て前に進みます。

その先には希望があるのです。

柴門暖さんは自分の欲望のために復讐を行いました。

復讐をしなければ、自分の憎悪を抑えることができなかったのです。

復讐が淡々と進むうちは、快楽と達成感、優越感など極上の幸せを味わえるかもしれません。

しかし暖さんが復讐を終えて得たものは空の屋敷だけでした。

彼の前からは昔の友人、愛する人、全てが逃げ去っていました。

復讐鬼と化した人にはもはや魅了などなく、恐怖心だけを植え付けていたのです。

この物語の醍醐味は、誰も成し遂げられないであろう復讐を成し遂げられた後に残ったものが何もなかったという結果だと思います。

復讐心は善良な人をも食い尽くしてしまいますが、その復讐心を堪能しても、残るものは何もないのです。

クズはどこまでいってもクズ

たとえ復讐が成功したとしても、クズはクズのままでした。

南條幸男も神楽清も柴門暖さんと同じ苦しみを味わった後も、全く同じように自分の都合のいいように解釈をし、過去の過ちを反省しようとは思っていなかったのです。

復讐とは後悔を植え付けるために行うものだと思います。

苦しみを味わわせ、なんであんなことをしてしまったのかと後悔させることが、最大の喜びなのだと思います。

その後に悪人が少しでも反省してくれ、善良な心を取り戻してくれれば、その復讐にも意味があったと思えるのかもしれません。

しかし復讐が成功したとしても、悪人は悪人のままでした。

苦しみは憎悪しか呼びません。

南條幸男と神楽清の発言は、復讐は悪人をさらに悪人たらしめるだけだと伝える意味があったのではないでしょうか。

そんな復讐にはなんの価値もないと訴えていたのです。

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すみれとの関係

すみれさんは暖さんのプロポーズを承諾しました。

答えを聞いた暖さんは驚いた表情を見せまます。

しかしその答えは偽りだとすぐに気づきます。

すみれさんは暖さんの復讐を止めるために、嘘をついていると気づくのです。

すみれさんはもはや、暖さんも南條幸男も好きではありません。

彼女が愛していたのは、復讐をする前の柴門暖であり、彼女を救ってくれた南條幸男だったのです。

今の柴門暖も南條幸男も魅力を欠いていると考えていたのではないでしょうか。

もちろん一度愛した人です。

嫌いにはなれません。

ですが、もう好きになることはないのです。

やはり復讐はまた新たな復讐を呼ぶ

入間公平の息子・エイトが柴門暖さんを睨みつけたシーンがとても印象的でした。

エイトは子どもながらにかつての江田愛理がそうであったように、家族をどん底に陥れられた被害者なのです。

エイトの人生は柴門暖さんによって無茶苦茶にされました。

復讐は必ずさらなる復讐を生みます。

柴門暖さんは復讐を成し遂げたように思いますが、それこそが彼の人生の転落への始まりだったのではないでしょうか。

このドラマが一番伝えたかったことは、復讐心にさいなまれてはいけないということです。

最後まですみれさんが必死に訴えていてことが、正しいことです。

復讐などしても意味がないのです。

それこそがもっとも正しい考え方です。

それが正しいことだと伝えるために必要だった物語なのかもしれません。

しかしもう一つ、それがどんなに難しいことなのかということも同じく重要なことなのです。

難しい選択ではありますが、自身のためになることは復讐などせず、待ち、希望を抱くことなのです。

柴門暖さんは信一郎と美蘭には自分が成し遂げられなかった、善良な生き方築いて欲しかったのです。

その二人の幸せが、柴門暖さんが一番夢見たことであり、このドラマが伝えるべき道だったのかもしれません。