テレビはどうして、つまらなくなってしまったのでしょうか。
テレビがつまらなくなったのではなく、テレビがずっと同じだから見なくなったのではないでしょうか。
テレビの人気が廃れていくのと反比例して、YouTubeの広告費が高くなっています。
ここではテレビとYouTubeを比較していきます。
新しいものがどんどん出ているのに、テレビは全然変わっていません。
出ている人は変わりましたが、やり方は全く同じなのです。
目次
内輪ネタ
テレビ番組でよく出てくるのはお笑いの人です。
彼らはもはや面白い人ではなく、炎上しない人になりました。
何か変なことを言うとすぐに、炎上してしまうので、テレビ番組では炎上した人は干されるのです。
そのため、炎上などあまり関係ないYoutubeの人気者の方が面白いというのが現状となっています。
Youtuberは別に部屋でスーパーボールを撒き散らしても、批判されず喜ばれます。
これが正しいのかはさておき、YouTubeの方がテレビよりも好き勝手できるのは確かです。
今テレビに出ている人たちは「お笑いの学校」を出て、決められたことしかできない、教科書通りの笑いをやっている人が多いです。
M-1グランプリでは、松本人志さんなどが、「んー」とか言っていますが、その批評も「終わりでもっと盛り上がって欲しかったな」なんて、誰もがわかることを単純に言っているだけなのです。
大手事務所が”笑い”を「教える対象」にしてしまったのです。
人はこうすれば笑うと決めてしまったのです。
それにハマらない笑いはいくら面白くても、評価されなくなりました。
「ナイツが面白いですか?」
「銀シャリが面白いですか?」
彼らは単に”漫才が上手い”だけで、面白いわけではありません。
そこに面白いかどうかなど関係ないのです。
だからM-1グランプリはネットが炎上する事態になることがあるのです。
視聴者が完全に面白いと思ったものが評価されないからではないでしょうか。
それは、テレビが本当に面白いものを見失ってしまったからです。
テレビの笑いはつまらない
テレビでは、大御所芸人に気に入られていなければ、評価されない異端児たちはその才能も虚しく消えていってしまいます。
キングコング西野さん、品川庄司の品川さんなどは、テレビ業界で嫌われました。
それが原因でテレビではあまり見れなくなりましたが、彼らは彼らなりに自分の意見を主張しているだけです。
彼らの言っていることが、世間的に間違いであっても、支持する人はいるのです。
だから、ネット上ではキングコング西野さんは評価されています。
テレビは、面白い人ではなく、問題を起こさない人を選ぶようになってしまったからです。
変な人ではなく、みんなに気に入られる人を残してしまったのです。
そんな優等生の決められたレールに敷かれた話のどこに、魅力があるのでしょうか。
テレビは事実を放送していません。
単に上下関係や人間関係を放送しているだけなのです。
上下関係がはっきりしており、興味のない芸人同士のプライベートを話し、クロちゃんがキモいだの、誰が失礼だのどうでもいい内輪ネタが横行しています。
テレビに出ている人は、巣の彼らを知っているから笑えるかもしれませんが、見ている人は、彼らがプライベートを荒らされようが、いじられようが何も面白くありません。
テレビの中の人、共演者は面白いかもしれませんが、テレビを見ている人には伝わらない笑いなのです。
テレビにはどうして滑った人が笑われて、テレビに出ているのでしょうか。
「児島だよ!」と突っ込んで、何回テレビに出るのでしょうか。
そんな繰り返しばかりだから、人はテレビを見なくなります。
大御所の芸人さんが、面白くもないことを言っているのに、周りの芸人がさも面白いと言わんばかりに笑い転げます。
もはやそこには宴会のおっさんレベルの笑いしかありません。
大して面白くもないのに、効果音の笑いを入れ、大して面白くもないのに、出演者たちは笑っています。
それを見て笑う人がいるのでしょうか。
「面白くないのに、テレビの中の人だけ笑っていて、見ている人は真顔」というのが今のテレビです。
この状況をテレビの中の人は、知りません。
なぜならテレビの中の人は、中の社会しか見えないからです。
お客さんは視聴者なのに、視聴者が中にいないからですね。
そんな嘘が多いテレビよりも、一切嘘のないYoutubeやネットテレビの方が全然見れるのです。
リアルで本当の世界が配信されているので、笑う笑わないは見ている人の自由です。
笑いの効果音もなければ、愛想笑いもありません。
リアルな笑いのみが、”そこ”にはあります。
またYouTubeに出ている人は芸人ではないので、「笑いのレッスン」を受けていない分、本当に面白い人だけが人気を博すことができます。
プロの芸人はどこかの事務所に所属しているため、事務所の方針で、この人を売り出そうとして、面白くないかもしれない人がテレビに出たりしていますが、Youtubeはそんなことが一切ありません。
本当に面白いがゆえに、再生回数の高い動画が取り上げられ、見る人の元に届けられるのです。
そのため、嘘のない本当に見る価値のあるものが視聴者の目に止まります。
テレビには主体性がない
テレビ番組を見ていてもクイズ番組以外参加することができません。
たとえdボタン参加できたとしても、反応が遅いし、ルールがわかりにくいので、なんの達成感もないし面白みもないのです。
さらに視聴者が参加できない企画に投票権を与え、完全に置いてけぼりを繰り返す番組もあります。
せっかく面白い芸能人格付けチェックで、どうして視聴者が味わえない料理の目利きがあるのでしょうか。
視聴者はそれにどうやって参加し、何を頼りに判定するのでしょうか。
その点、Youtubeは見た人が意見し、ああだこうだ議論し、Twitterの反応を見たり、投稿者のLINELIVEで交流したりできます。
Youtubeは完全に参加型なのです。
時にはYoutube内でライブが行われています。
見ている人は、コメントをライブで送り、配信者と交流するのです。
そんな夢のようなリアル体験をテレビでできるのでしょうか。
どうして一つのチャンネルに一つだけ?
テレビは民放とNHKしかありません。
全部合わせても6個ほどしかないのです。
テレビを見る人は、この6個の選択肢の中から選ばなければなりません。
6個回して見て、いいものがあれば見ますが、なければ当然他の物を見に行くのです。
それなのに、平成最後の日には、「天皇陛下のこれまでの功績」や「平成で流行ったもの」を民放各局が流しました。
年号に興味のない人は何チャンネルを見ればいいのでしょうか。
その状況で、「IPPONグランプリ」を放映したり、「面白動画ランキング」を放送したりしていれば、年号に興味のない人はそこへ流れ、高視聴率を得たのではないでしょうか。
せっかくタモリさんが出ていたのに、「いいとも」の復活も演出できません。
Youtubeへ行けば、数え切れないほどの動画があります。
どうしてテレビは一つのチャンネルで、一つしか放送していないのでしょうか。
Youtubeであれば、一つのチャンネルに何10個もの動画があります。
Youtubeは過去のものも見ることができるのです。
テレビはとても歴史が長いのに、どうして過去の放送を見ることができないのでしょうか。
テレビ局には数え切れないほどの過去の放送分のテープが棚に保管されています。
そのどれもが埃をかぶって置かれているだけなのです。
どうして、それらをデジタル化し、いつでも見れるようにしないのでしょうか。
それを見ることができれば、多くの人は今よりもっと、テレビを見るのではないでしょうか。
80年台の番組、若い頃の明石家さんまさん、破天荒な北野武さんの映像を見れるなら、テレビを点ける人もいると思います。
朝はどうして情報番組?
朝から夕方くらいまで、テレビは情報番組ばかり放送しています。
早朝に真面目系のニュース番組、朝にポップな情報番組、8時頃からワイドショー、12時頃からゴリゴリのワイドショー、14時はエンタメ中心の情報番組へ、16時から真面目系のニュース番組。
これが民放各社ほとんど変わらず帯化しています。
「えっ」て思いませんか?
チャンネルを変えてもほぼ同じ内容。
なんで?
誰もおかしいと思わないのでしょうか。
どうして、民放各社とも同じジャンルの番組を放送しているのでしょうか。
もちろんその時間は情報番組が一番視聴率が取れるからかもしれませんが、この流れは何十年もずっと同じです。
どうしてこんなことが続いているのでしょうか。
そしてテレビ局で働く人は、この事態に違和感を覚えないのでしょうか。
私だったら、みんな同じだと気持ち悪いと思いますが、テレビは平気でそれをやっています。
多種多様のこの世の中でテレビだけが会社をまたいで同じ物を放送しているのです。
チャンネルを回しても、全部同じ。
全部情報番組。
それ以外を見たい人はどうすればいいのでしょうか。
当然テレビを消し、ネットの世界を見るのではないでしょうか。
朝から気分の悪い殺人事件だ、アイドルがどうだなど噂話程度のどうでもいい話を聞かされ日常が始まります。
テレビは目覚ましがわりに使っていますが、毎日不吉なニュースを見させられるので、私は起きたら一目散に音量を消しにいきます。
もはやテレビはうるさいだけなのです。
ドラマは過去のものが見れない
ドラマにしても、そうです。
どうして、途中から見だした人は、過去の話を見ることができないのでしょうか。
今でさえ、一話分であれば一週間だけ、「Tver」で見れるようになりましたが、どうして最新の一話だけしか見ることができないのでしょうか。
もしも、過去放送分をいつでも見ることができれば、リアルタイムでテレビを見る人が増えると思います。
最終話付近で話題になっていると気づき、九話目ぐらいで関心を抱き、面白いと思った人は、過去の放送分を見ることはできません。
需要はあるのに、テレビが勝手にルールを作ってその機会を奪っています。
単なる機会損失です。
ネットTVのドラマなら、過去のものを当然見ることができます。
民放は、過去に放送されたドラマも見ることができません。
再放送で見ることはできますが、90年代のドラマをテレビで見ることはできないのです。
これもおかしいことだと思います。
今の時代に誰がDVDを借りにいくのでしょうか。
家にいれば、ネットTVやYoutubeが見れる時代に、YSUTAYAにドラマのDVDを借りにいく人は少ないのではないでしょうか。
だからこそ、テレビをアーカイブ化し、古いドラマでも見れるようにすれば、まだまだ人はテレビに流れるのです。
見たいものが見れない
テレビはどうして、その時間に見れるものが決まっているのでしょうか。
私は10年ほど前から思っていますが、どうしてテレビはテレビ局の人が決めた企画を放送しているのでしょうか。
テレビのプロデューサーが決めた企画を放送して、それがこの多種多様な時代の人々に受けるはずがないのです。
全知全能の神でない限り、万人が見たいものを企画できるはずがありません。
どうしてこれは面白いのではないかと、自信を持って放送することができるのでしょうか。
多くの人が面白いと思えるものなど放送することはできないのです。
スポンサーは一つの番組に視聴率を期待し、これは多くの人が見るだろうと、CMを打ちます。
そんな予想が果たして当たるのでしょうか。
考えてみてください。
どうしてこの時代に視聴率が高くなる番組を当てることができるのでしょうか。
ネットに行けば、誰もが検索フォームに自分の興味のあるワードを入れて検索できる時代です。
テレビだけが一方的にプロデューサーが決めた企画を放送しています。
チャンネルを回して、たまたま面白いものがあっただけで、それは完全にたまたまなのです。
ネットでは検索に引っかかったものだけが出てきます。
そこには確実性があり、自分の知りたいことがあふれているのです。
テレビは興味があるかわからないものを、今まではそうだったからというだけで、放送するのです。
そんなものになんの価値があるのでしょうか。
昔ならばいいでしょう。
インターネットがなく、テレビか新聞か本しかなかった時代は、テレビというものは素晴らしいものでした。
今のこの多種多様で、検索すれば自分の好きなものにたどり着ける時代に、「一方的に決められたプログラム」を見る人が果たしてどれくらいいるのでしょうか。
テレビは過去の栄光にすがりつき、今までのやり方をやめられない化石と化しつつあるのです。
今はまだど天然なスポンサーが金を払ってくれるから、放送できますがこのままいけば本当に化石になってしまいます。
こんなに周りが目まぐるしく発展している世の中で、全然変わらないテレビはどんどん見る価値を失っているように思うのです。
早送りできない
テレビは流れている時だけしか見ることができないので、録画なのに早送りすることができません。
Youtubeであれば、興味のないところをタッピングするだけで、どんどん飛ばすことができます。
そうすることで、自分の興味のあるところだけ見ることができますが、テレビはそれができません。
始めから終わりまで見なければならないので、途中でスマホを見たり、違うチャンネルに変えたりするのです。
興味がなくなったところで、視聴者は離脱してしまいます。
どうしてこの時代に早送りすることができないのでしょうか。
これも化石だと思ってしまう要因かもしれません。
まとめ
今の世の中は、見たいものがすぐに手に入る世の中です。
自が知りたいことを、検索すると、それがすぐに出てくるのです。
そんな世の中であるにも関わらず、テレビだけは一方通行の確率の低い一発勝負を繰り返しています。
テレビの制作現場は、当然優秀な人も減っていますし、もともと科学的に面白いものを作ろうなど思っていないので、万人が見たいものを作れるはずがないのです。
それでなくても、超ブラックで、制作側は皆睡眠不足です。
疲れがピークに達している状態で、日々働いています。
そんな人たちが何か新しいことや、面白いことを創造できるのでしょうか。
そもそもブラックな人たちが、これから先の社会で新しい成果を出すことはできないように思います。
ここまでくると、10年前にライブドアに買収されていた方がもっと面白いものになっていたのかもしれません。
周りにインターネットというどんどん変わっていくものがあるにも関わらず、テレビは一切変わらない。
タレント、お笑い芸人、俳優という超一流の人たちを抱えた、恵まれた環境でありながら、それらをうまく操ることができなくなってしまっているテレビはいつその古さに気づくのでしょうか。